日記

日記

2017.11.12 晴れ

十時間以上寝ていた。意識が朦朧としているがこれ以上は眠れない状態で起きているとも言い難い。ケータイを探し出してツイッターを開いてみると目の奥がぼんやりと痛い。痛いままタイムラインを見る。空腹だが特に何も食べたくない。ケータイの時計で10時半過ぎであることを確認する。とりあえず起き上がって顔を洗う。猫はもう朝食を食べて眠っている。同居の便利なところだ。目が開けにくいと思っていたら瞼が腫れている。冷水で顔を洗いながら瞼を揉む。さしてすっきりしない。水が冷たい。コーヒーを飲む。友人を作ることの難しさについて考える。ほぼ答えは出ていて新しい人間と無意味で無目的な時間を無言で過ごす期間を数年にわたって持つことが不可能に近いからだ、と思う。会話が盛り上がったからと言って他人と親しくなるかというと(親しくなる可能性は高いんだけど)そうとも言い切れなくて何かよくわかんないけどよく会うみたいなことで親しくなることも多い。大学時代の友人は後者に当てはまるし自分にはほとんど大学時代の友人しかいない。職場で仲良くなった人々とは転職のたびに関係が切れる。共有できるものが職場にしかなかったからだと思う。転職し過ぎで人間関係をはぐくむ時間が足りてないのもある。大学では六年間ほど人間関係を育てる時間があり、その間にはたくさんの無の時間の共有が含まれておりそれが結果的に大学という場を離れても関係性を保つことに役立っているのではないかと思う。惰性といえば惰性だろうか。ここ数年でできた友人はほとんどすべて和歌山で知り合った人々で、毎年泊まり込みで梅の収穫に行っていた農家の人であったり、最初に住んでいた家の家主とその友人でたびたび家に泊まりに来てしばらくぼんやり遊んでいく人々であったりする。個人に対して思い入れがあるというよりも(実際そんなに共通の話題がないししゃべっていて盛り上がることもあまりない)ある状況の共有が数年を通して起こり続けた結果何となく親しみを覚えるようになったという形だ。和歌山に家の家主は東京に住んでおり和歌山居住時代は年に二、三回ほど長期で滞在させてもらっていた。滞在期間中も特に一緒に何かするということもなくそれぞれの時間を自由に過ごしているだけだった。特に盛り上がることがない人間関係だが居心地がよかった。人間関係未満なのかもしれない。人間と直接かかわるのではなく、状況を通して人間と間接的に関わる?みたいな。うまく説明できない。お互いが見つめ合っているのではなく同じ月を見ている、みたいな、月でワンクッション置いた関係が許されるという感じ。距離感がある程度あるほうが安心する。相手の存在に常に意識を向けなくても同じ空間にいていいという気楽さ。大学時代の友人についてもこの感覚はある。アトリエで絵を描く友人を眺めながらぼんやりとコーヒーを飲んでいる時の感覚。お互い別のことに集中しつつ同じ空間に存在することを許される感じ。更にさかのぼると、小学生のころ友人の家に集まってそれぞれが持ち寄った漫画を交換して会話も時間も忘れて読みふけっていた感じ。和歌山の農家の場合は梅の収穫がその時間に当たる。同じ山で各人が黙々と果実の収穫にいそしむ。無意味で無目的な時間という言い方から外れてきた。お互いを直接的に意識しない時間というほうが正しい。少人数でお互いを直接意識しなくて済む時間を長期にわたって持つことで友人を作ってきたって書いたらそれってめっちゃ運任せだな。意志が薄弱。でも運がいい。いや、たぶんそういう時間の過ごし方をさせてくれるタイプの人間を見つけたらそれなりに積極的に自分から連絡して遊びに行ってるので意志はちゃんとある。

 

午後から本棚を組み立て始めたが見事に失敗してもうどうしようもない気分になったので出掛けようとしていた同居人にひとしきり言い訳をした後、一人でピザを取ってやけ食いする。ワインも飲む。ダメなときはダメだ。悪あがきすることもできないくらいにダメ。こういう日は何かやってもろくなことにならない。諦めが肝心だ。